
あらゆる感情は名前をつけた時に分化した。
それらは全て微細な光粒子の流れ・瞬き・稲妻だけど
人は身体に流れるそれを簡略化して
喜び・怒り・哀しみ・愛しさ・憎しみ・不安、色んな名前をつけた。
名前をつけた時に、良いもの悪いものの色がついた。
振動が違うだけで、ほんとは全部同じ光粒子なのにね。
その全ての光の振動は私をプロテクトしてくれるためにこの身体を流れる。
その振動により私のあらゆる組織は私を護るために働く。
不安も恐れも怒りも喜びも愛しさも、私を護るために私の身体を流れる。
それに気づけば、それらを無くす必要もない。
ただただ有り難く思う。
この見えない何かは、私という存在を生かそうという強い意志を持っている。
こんなに強い意志を持って愛してくれているのだから、それ以上に何が必要だろうか。
産まれた意味がもし分からなくても
この強い意志に応えるために精一杯生きよう。
そんな風にさえ思える。
その光をそのままに受け取れるように身体と心をクリアに保とう。
キュキュッとピカピカに優しく磨こう

[五感を観察する]
この前セッションにカラーセラピストさんが来た時に面白い話を聴いた。
服飾の専門学校時代に様々な色を取り扱う時に、実は色覚が人とは違う事に気づく人が結構いるそうだ。
自分では赤だと思っていた色が多くの人が見えている色と違う。
そして同じ赤でも、その色に何十種もの色域を感じる人とそれら全てまとめて赤だと認識する人がいる。
色域の広さも人それぞれなのだ。
私は音程を取るのが苦手だ。
それは観察すると耳の聴域の狭さからきている。
音の差異を聴き取るのが人一倍難しい。
だからこそ人一倍集中して、人一倍練習しなければ唱えられないヴェーディックチャンティングが好きだ。
でも、みんなが聴こえる聴域より狭い反面、みんなが聴こえにくい微細な音波はキャッチしやすい。
例えば隣の部屋の鞄に入っている、誰かの携帯のバイブの音が聴こえたり
みんなが聴こえない、機械の超音波が聴こえて具合が悪くなったりする。
周波数の幅が一般的な人より少しずれているのだ。
視覚もまた少し弱い。
小さな頃から視力が低く乱視が強かった為
裸眼では横の線と距離を掴むのが難しく、あると思った所に階段がなかったりするので
手すり無しで降りるのは怖かった。
あると思った所に鉄棒がなく、地面に落下した事もある。
今もコンタクトをつけてても横のラインと距離を掴むのは苦手だ。
それに対して、触覚は豊か。
様々な事を皮膚からキャッチしている。
その場の空気やその人の発しているもの、音、粒子。
それらを触覚で受け取って感じている。
それは小さな粒つぶが皮膚にぶつかり、皮膚を構成する粒子が泡立つ光波となり、全身を這い私に伝わってくる感じ。
臭覚も鋭い。
臭域が広いというより苦手な匂いが結構ある。
その匂いはかなりメンタルにくるので、日頃いい匂いのクリームなどを持ち歩き
そんな匂いに会った時は手にすりこみ、クリームの匂いで臭覚をガードしている。
味覚も同じく鋭いけれど、こちらは大らか。
ある一定を超えた化学調味料には、かなりやられて元気がなくなってしまうけど
様々な味を、うえー!ひえー!となりつつも楽しめる器の広さがある。

とても長くなってしまったが五感を観察し、自分の特徴を平らに観るのは面白い。
きっと、みなさん私もそう!や、私の場合はこう!など面白いお話を聞けるんじゃないかな。
そしてそうやってみんなの五感の観察を聞くと、あぁ世界の観方感じ方は人の数あるのだなぁ
といろーんな世界が知れて、お互いの理解と共感が深まるんじゃないかなぁ
学校でそんな授業があってもいいよね♪