ヨーガを深めていって辛くなる時ってどんな時?

連日凄い猛暑ですね。

暑い日の終わりにご褒美のように顔を見せてくれる

お月様と夕焼け空。

昔から早朝と日暮れどきに時たま見られる

青からピンクのグラデーションの空が好きです。

オーラソーマをしている生徒さんに聞いたら

その色合わせはスターチャイルドといって

無条件の愛のコミュニケーション。

意識のマインドにおける平和、自己の深みにある自己受容、らしいです。

春からずっとお花の曼荼羅を作ることがプラクティスの一部になっています。

WSをしてほしい、という声も沢山頂いているので

もう少し深めてその時がきたら何か形にしたいなと思います。

秋冬のヨガスタジオFIVEELEMENTSでのシリーズクラスでは

最終回にみんなで曼荼羅を作りキールタンを唄う時間をとりますので

その時の感覚なども踏まえて、どんな形でみんなにシェアしていけばいいかな、とかも感じたいと思います。

私は頭で考えたり、それを言葉にするのが割と得意で

それは神様に与えられた私の特性なので活かしていきたいなとは思うのですが

バランスとして、言語化できない時間を取ることがとても必要です。

それはそうしようとしてしているのではなく

勝手にそういうものをチョイスしているようです。

それは、料理を作る時間、写真を撮る瞬間、アーユルヴェーダの日々の生活法、唄うこと、マントラを唱えること、お花と触れ合うこと。

タイマッサージやチネイザンで繋がること。

もちろん、ヨーガのアーサナや呼吸法や瞑想もそうです。

この前マントラの先生とのセッションの時間で

「ヨーガを深めていって辛くなる時ってどんな時?」

という話になりました。

ヨーガの練習を深めていくと、ヨーガが辛くなるような瞬間が訪れてくる、そういうことはよくあることです。

それは階段のようで、ふとその辛さが取り去られたと思ったら、また忘れた頃にそれがやってきたりします。

焦りや貪欲、怠けたいという心や終わりの見えない徒労感。

とても好きな先生ができたりすると、その人に認められたいという思いや執着も生まれる時もあります。

また、人と比べて自分が劣っていると感じたり、逆に傲慢さも顔を出すかもしれません。

ヨーガを人に伝えると決めて、学びを深めていく中で

思考や言語化を必要とし、それらが時に足を捉えて苦しくなる時もあります。

そんな時に、言語化できない時間が私をフラットに整えてくれて

気づけばまた、思考や言語も味方になっています。

思考や言語が足を捉える時、それは自分という容れ物の中に色んな靄や塊があちこちに詰まって

内側に響いたものが、それそのままに外に表現できていない時です。

そして、そのヨーガを深めていって生まれた苦しみを取り払ってくれるのも

またヨーガ、だったりするから面白いなと思います。

ただ私の場合はヨーガ以外の手法も良いと思ったものは色々取り入れて、それが前述した色々です。

表面に出ている形は違っても、それらの真ん中にあることはひとつです。

それはわたしという容れ物の靄や塊を取り去り「それ」をそのまま響かせる事。

「それ」はそれとしか表現できない「それ」です。

昨日こんなことがありました。

娘は今手作りスライムにハマっているのですが

そのスライムが冷えピタみたいなので、冷えて気持ちいのかなと思い、娘の頭に載せたのです。

するとさっきまで手にも何処にもくっつかなかったスライムが

髪の毛一本一本を捉えて離さないのです。

私は面白くって笑ってしまいました。

すると娘は母のひどい仕打ちに(笑 ひどいよね)

ものすごく怒りました。

それはもう取れないんじゃないかというほど髪の毛にくっついていた上に、母親は笑っているからです。(ちゃんと謝りました)

すぐにお湯で洗い流すとそれはスルスルと取れていきました。

娘はまだ怒っていましたが、すぐにケロッと楽しそうないつもの娘になりました。

これはスライムは頭に載せてはいけません、というだけのお話ではなく

自分の内側にある鏡にペッタリとついた汚れってそういうもんじゃないかなあ、と思ったお話です。

私はその汚れが取れない!絶対取れない!なんて難しいんだ!と大騒ぎしているけれど

きっと神様はその姿を見て、大丈夫だよ、とっても簡単にスルスル取れていくんだよ、と

微笑んでいるんじゃないかな、と思ったのです。

 

でも、実際に娘の頭にスライムがついた時は笑ってはいけない、と学びました。

しかしなんで手にはくっつかないスライムが髪の毛にはくっつくんだろう。

知っている人がいたら教えてください。

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