ジョーティッシュを受けて・意識が切り替わる時 その2

さて、前回は

アーユルヴェーダやヨーガを行なう上で

自分の性質に真に気づくこと

それがとってもとってもとってもとっても

大切で、そしてその為には…

という所でした。

その為には…

これ!と言葉で言えるものがあるわけではなくて、って

どないやねん!!笑

その人その人に、それぞれそのタイミングや段階があって

それは何かでコントロール出来ないものかなと思います。

ただ、そのタイミングを掴むことやその時にどれだけ深く気づけるかは

どれだけ自分がそのキッカケを与えてくれる人や何かを

真っ裸で素直に受け入れられているかが大きな要素かな、と思います。

自分の顔の表情、仕草、声、瞳、言葉

そういうところにも全部出ているし

自分がどれだけそのままか

そこにある嘘や虚構が多ければ多いほど

そのタイミングは逃すし、段階は浅く遅くなるのかなと思います。

今回のセッションで私が受け取れた分は

私がそのままで真実で居られた分だと思います。

それは要するに答えはそもそも自分に在るということです。

目の前に居る人は鏡で私の瞳の曇りのない部分だけが

今の私に見えるのだという事です。

だから、セッションを受ける時は曇りが少ない鏡と出逢い選ぶということも大切なんだと思います。

お互いが鏡として、瞳として、曇りを晴らしていくこと。

セッションは共同作業、お互いで車輪を回すことなんだと思います。

私はそのままに向かい合ってもらえるステキな先生に恵まれて

とてもラッキーで幸せだと思います。

私は子供のころ、大笑いしていても何か胸の真ん中に

すごくすごく冷たい丸い石のような宝石のような隕石のようなものがあって

それは絶対温まることがないもので

これは一体なんなんだろう、と感じていました。

ある時、何かの文章でビートたけしさんがそれと同じようなことを書いていて

ああ!私だけじゃないんだ、この塊があるのは。とものすごくホッとしました。

そこからビートたけしさんは私のヒーローなんですが。

その塊は今ではもう感じられなくて

きっとヨガを始めて段々小さく小さく分解されたように思います。

でもきっとそのカケラは見えない見えない微細な粒子

サンスカーラ(残存印象の種子)のように存在していると思います。

今回のジョーティッシュセッションで

私の過去生など(過去生があるかどうかは概念の話なのでどっちでもいい事として)持って生まれてきたものの話の中で

「元々、深い所で自分の要求を真に満たすものはない・存在しないという、根底的な絶望を持っている」

その言葉を聞いて、ああ、あの塊の名前はそうだ“絶望”だったんだな。と、納得しました。

“絶望”というととても暗いもののようですが、そんなことはなくて。

そして

「あなたにとって、その望みが可能性として叶うとすれば、それは自分より大きな意識体、そこに近づく方向へ自分が向かっている時。

その時にすごい安心感があって、そこへの絶対的な信頼感があるんですね」

この言葉に大きく大きく頷きました。

ああ、そうか。だからこの道を歩いてるんだろうな。って。

今後どのように自分が進んでいくのかわかりませんが

それが、自分の芯・核となる部分なんだな、と思います。

そしてその絶望への答えは、私だけでなく皆んなが知りたいもので

社会的な表現を通して、私が伝えていきたい事はそこ。

そして、それは絶対にブレてはいけない事。

それが今回一番私に伝えなければいけない事だったようで

私自身、気づきたかった事でもありました。

(実家の庭の八重桜で母が作った桜の塩漬け)

さて、読んでても???って感じでうまく伝えられているのかわかりませんが

この熱量で書いておきたいな、もしかしたら誰かにとって意味があるかもな

と思って書ききりました。笑

 

今日は朝ドラで大好きなくらもちふさこさんの漫画が出てきて

きゃーーーって読み返していました。

難しいこと書いてるようですが

こんなキャーーはずっと大切にしていきたいのです。

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る