小さいわたしを思い出してみる

私は社会人になるまで

写真を撮るのは好きだけど

保管に興味が無くて(今も無いかも)すぐ捨てちゃうので

小さい頃や学生時代の写真があまり手元に無いです。

旦那さんは逆にしっかり保管したいタイプなので

彼と出会ってからの写真は沢山あります。

この赤ちゃんの頃の写真は

結婚式の時に実家のアルバムから拝借してきたもの

結構面白い顔してました。

(座敷わらしのようだ)

小さい頃の私は母曰く

全く人見知りせず、目と目が合ってニッコリしたら誰でもお友達

という子供だったそうです。

でも全く人の名前を覚えなかったそうです。

どんだけ仲良く遊んでても、名前を聞いたら

「知らなーい、お友達!」

だったそうです。

(おじいさんのようだ)

ここには無いのですが、幼稚園時代の私の写真は

みんながきちっと座っているのに、だらしなくポケーと座り

愛想笑いが皆無な写真が多いです。

性格は引き続き誰とでも友達になるけど名前を覚えない子だったそうです。

執着なく誰とでも遊ぶので先生に重宝され

1人になっている子とかとも頼まれてあそんだりしていたそうです。

確かに特別好きな子とかの記憶がありません。

(前髪邪魔じゃないかい?手の角度が可愛いね)

とってもマイペースな子だったようです。

そんなわたしが初めて空気を読んだ記憶が、今も鮮明にあります。

それは幼稚園の卒園式の時。

周りの友達が泣いていたのです。

わたしは全く悲しくもなかったのでびっくりしました。

でも泣いていないのは自分1人。

その時!!!!

わたしは空気を読んだのです。

嘘泣きをしました。多分めっちゃ拙い嘘泣きを。笑

(いや、だから前髪邪魔やないかい?)

最近より深く深く潜るように自分を観察しています。

そうすると、何層にも何層にも

複雑に色んな感情や記憶や妄想や

長年積み重ねた身体の反応や思考の反応

そういったものが次から次へと出てきます。

ああ、底に着いた、と思ったらそれはパカっと開き

また終わりのない暗闇が穴を空けています。

取り繕って居られない。

うんざりしそうになります。

(産まれた時から髪がフサフサ)

わたし自身を慈しみと理解の眼で観る事ができますように。

最近よく唱えている言葉の一部です。

どんな言葉も、繰り返し祈るうちにマントラ(真言)になる。

守ってくれる力になる。

 

小さい頃の、わたしがわたしらしく全力で生きて居たあのわたしに

執着なく、目の前の人と喜びを共にし

笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣いて

周りの目を気にせず、人と比べず

自分じゃない誰かになろうとせずに

そんなわたしに

 

還っていきたいな。

 

なぜ、うんざりしそうになりながらも潜るのか

それはその暗闇が光の源を生むと

直感的に知っているからです。

 

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