何に意識を向けていきたいか

(伊藤武先生に描いてもらったグリーンターラー、憧れの慈悲の女神)

11月最初の1週間は、マントラのプライベートセッション、タイヨガのトレーニング、ヨーガスートラ講座、と学ぶ時間が詰まった日々でした。

そんな中自分の意識の中心にあった問いは

「何に意識をむけていきたいか」

でした。

これはマントラの先生やタイヨガの先生に問われたことです。

そしてたまたま先週からのプライベートヨガで私に会いに来てくれた方に、今度は私が聞いたことでもあります。

プライベートクラスではよく、なんてタイミングで。ということがあり

その人に話しかけているのか、自分自身に問うているのか

境目が混ざり合います。

毎回生徒さんに向き合いながら、自分自身に気づきがあり、学びがあります。

マントラの先生が「私は鏡だからね」と何回も伝えてくれました。

私も私の生徒さんの前にいる時、向かい合う2人は鏡だなとよく感じます。

学ぶ側にいる時はそれを感じるのが難しいけれど

やっぱりそういうことなんだろうな、って思います。

また、この期間は「執着しない」ということについてよく感じ考えた期間でもありました。

(私の汚い字 笑 でヨーガの二本の大黒柱と書いてあります)

ヨーガスートラではこんな有名な一節があります。

「それ(心の活動)は実修と離欲によって停止」

(ヨーガスートラ1ー12 伊藤武 訳)

ここで言う実修とは

サンスクリット語でabhi(〜に向かって)から派生するabhyasah

なので、目標に向かって何度も何度も反復して繰り返すこと。

自分が意識を向ける方向を定め、それに向かってコツコツと繰り返すこと。です。

そうすると、私のような凡人はついついその結果を求めてしまったりします。

そこで大事になってくるのが離欲かな、と思います。

バガヴァットギーターでもカルマヨーガの章などを中心に

結果への執着を捨てること、が繰り返し説かれます。

ただここで説かれている離欲は結果だけではなくその行為そのもののことでもあるように感じます。

「離欲は、見たり伝えられたものに対する執心を脱した(欲望の)征服者の意識」

(ヨーガスートラ1ー15 伊藤武 訳)

伝えられたものに対する執着

もしくは伝えてくれた人に対する執心

それは結構扱うのが難しいものだな、と感じます。

(最初は安心して繋いだ手も、離れる寂しさ・怖さが生まれ、不安に繋がることもある。)

いかに執着なく、執心なく

尊敬と愛をもって学びつづけるか。

自分が学ぶ側でも先生と言う立場に立つ時でも

とっても大切なことだなと思います。

そんな時に、こっちだよ、って教えてくれる灯火が

「何に意識を向けていきたいか」

なのかな、って思います。

それは執着だけではなく、いろんなことで迷った時にも。

だからそれをまずしっかり見つめることは、とても大切なことなんだと思います。

 

ここ最近感じたり考えていたことを

文字に残しておこうかなって思って書きました。

またこれを読んで感じたりしたこと聞かせてもらえたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

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