最近星野道夫さんの本を読んでいます。
今更私がどうこう言う必要のないくらい
多くの人の心を打つ、写真や言葉を残した方です。
その素晴らしさはわざわざ言葉にする必要もないかと思うのですが
とても心に残った一文があったので
それについて書いてみようと思います。
それは
(以下 「魔法のことば」 より引用)
「…例えば鳥が好きだというとき、その鳥が生きている面白さというのは
結局突き詰めて考えると僕が生きているということの面白さと等価なんですね。
自然に対する興味というのは、本当に最終的に突き詰めていくと
僕は僕の生命に対しての興味だと思うんです。」
(引用 おわり)
先日のマントラリトリートで
小淵沢の自然の中で繰り返し、あるマントラを唱えていました。
それは大きな石の上で一人で座り、樹々の揺らめきや、水が水を打つ音を聞きながら。
その周りで大好きなみんなが、のんびりしてたり、お話ししてたり
そんな気配を感じながら。
眼を瞑り、繰り返し繰り返し小さな声で。
ふと、目を明てみたその時、当たり前の真実のように
ああ、あの葉っぱの一枚一枚も、木の枝も、水も、土も、空気も
目に見える生物も、目に見えない生物も
そのすべてが「わたし」であるんだ。
と力強く感じました。感じたというより、どんどん目が見えていくような。
なんとも表現できない感覚。
ヘレンケラーのウォーターのような。
このような概念はヨーガでなくとも、色んなもので言われているような
いわば使い古されたよくある言い回し。
でも、それらを言葉として理解していたのとは全く質が違って。
言葉として外から入ってきたものと、自分の内側から沁みだしてきたものとでは
もうなにもかもが全く違う。
目の前の人を愛おしいと感じる。かけがえのない存在だと気づく。
それと、私は全く等価な存在だと気づく。
何気ない生活に、自然が作り出す一瞬に、うっかり涙がでそうになる。
それと、私は全く等価な存在だと気づく。
物言わぬ自然の中に身を置く。徐々に自分とそれ以外の境界線が曖昧になる。
その儚さ、力強さ、優しさ、残酷さ、永遠性。相反しながら矛盾なく存在するすべての欠片。
そしてそれが自分という存在そのものだと気づく。
自分が壮大な自然そのものだと気づく。
段々何が言いたいかわからなくなってきましたので
ここらへんにしようかなあ。