先日お友達の結婚式がサプライズで行われました。
私はその日、娘のピアノの発表会で行けなくて、ぎこちないビデオレター(笑)を送ったのだけど
お友達がブログでお父様のスピーチの動画を紹介してくれて
そのお話しを聞いて、グッとくるものと共に、自分の死に対する色んな記憶や思いがふーっと出てきて
ちょっと書いてみようかなあ、と思いました。
お友達のブログ、是非ご覧ください。みなさん、色んな想いを抱かれると思います。➡父と歩いたヴァージンロード
私にとって「死」がとても身近に感じられたのは、阪神淡路大震災の時でした。
祖父の家は東灘区の、その後再開発地区となる場所。
それはその一帯が壊滅的に地震の影響を受けた、ということを意味します。
私の家は幸いそこまでの被害はなく、それでもめちゃくちゃになった家の中や落ちた瓦などを片付けながら
連絡のとれない祖父宅を心配しかできない状態でした。
姉と父が車で何時間もかけ様子を見に行き
その間母と、テレビの続々と増えていく死亡者の名前を見つめる時間
私は16歳という微妙な年ごろに加え、家族とも仲が良いとは言えない時期だったので
母を見ないように、地震の影響で震えている犬を抱いていたように思います。
帰ってきた姉が「おばあちゃん冷たくなっていた」と言ったように思います。
泣く家族を後ろに、私は泣かず、階段にいき、ため息をつきました。
そして次の日だったか、みんなで祖父宅にいきました。
JRの高架を超えた先に広がっていたのは、見渡す限りただただ倒れた家。
戦争ってこんな風景なのかな。とぼんやり思いました。
祖父宅のがれきの中から必要なものをみんな無言で取り出す作業。
泣く人はいなく、寒い季節だったのでドラム缶で手を温めました。おにぎりが冷たかった。
たまに「出たぞー」と遺体が発見され、畳か何かに乗せ運ばれていきました。
そのあたりは自衛隊などは来ていなかったような気がするので、一般の方が運んでいたように思います。
それは、淡々と。
そして、祖母の遺体を安置している小学校に行き
沢山のご遺体が並ぶ中、そこに祖母もいました。
親戚や親や祖父が泣いて、私は泣きませんでした。
ただ、人は突然死ぬのだな。こんなに一瞬に何人も何人も。と思っていました。
祖母は午前5時46分、1階にいて亡くなり
祖父は2階で寝ていて助かりました。
祖母はなぜ1階にいてたかというと、祖父のお弁当を作っていたからです。
祖父は祖母の遺体に、「ごめんな、ごめんな」と言っていたように思います。
優しい祖母。でも、亡くなるのだな、人は。
その当時の記憶は曖昧で、その後のあれこれは飛び飛びの記憶です。
16歳には割とストレスだったのでしょう。
ただ、私はおばあちゃんの懇意にしていたお寺でお葬式してあげたかったなあ、と思っていました。
東日本大震災の時もそうでしたが、沢山の死者がでて、建物が広範囲に倒れる地震という災害は
遺体をどう保管するのか、時間は待ってくれないし、火葬やお葬式の場所は選べないのです。
大きな災害が起こるたび、ご遺体のことを想います。
私はどこでどのように死ぬのかはわからないけれど
もし、死に場所や、遺体のその後まで
選ぶことができたなら、相当ラッキーだな、と思います。
なぜこのタイミングでこのような事を綴りたくなったのか
よく分からないけど、心の声に従い書いてみました。
「死」を瞑想する。
生死一如。
まだ、私にはわからないけど、お友達のお父様のお話しを聞けてよかったな。
ありがとうございます。